ウィーン窯のトルココーヒーカップ(テュルケン・コプヒェン)。
18世紀、ドイツ系磁器メーカーにとって、トルコ(オスマン帝国)は重要な輸出先でした。もともとヨーロッパではトルコ趣味(テュルクリ)が流行しており、ヨーロッパでコーヒーが流行したのもテュルクリの影響です。当然、交易は重要視されており、とくに神聖ローマ帝国ハプスブル家のお膝元であるウィーンはドナウ川を通じて大国であったオスマン帝国領へと通じる最重要拠点であり、ウィーン窯にとっても、オスマン帝国市場は重要市場で、多く輸出されました。トルコでは西洋とは違い、ソーサーを使う文化はなく(もともと金属製のホルダーなどを使う文化がある)、いかにも東洋と西洋の間という独特な雰囲気をもったスタイルでした。
このようなオスマン帝国市場向けはウィーンだけでなくマイセンやニンフェンブルク、アンスバッハなどドイツ南部の多くの窯で製造され、数百万の輸出がありました(トルコだけでなく、北アフリカやヨーロッパ在住のイスラム系住民にも販売されていました)。たいていの絵付けは専門の工房にて行われ、輸出されました。このカップもウィーン窯で絵付けされたものではなく、専門の工房にて絵付けされたものと考えられます。ナポレオン戦争により、このようなトルココーヒーカップの輸出は衰退することとなります。
刻印からすると第3期(ゾルゲンタール期)の製品です。
轆轤師番号あり(明確に読み取れず番号は不明)。
※日本のぐい呑みのような小ぶりなカップです。サイズご注意ください。
【ウィーン(ヴィエナ) / Wiener Porzellanmanufaktur (Kaiserlich privilegierte Porcellain Fabrique)】
1718年、デュ・パキエがマイセンの製造技術を知り、技術者を引き抜き、ウィーンに磁器工場を設立した。神聖ローマ帝国皇帝カール6世により25年間の独占権を与えられた(第一期)。独占権の終了時、多額の負債を抱えており、1744年にマリア・テレジアの下で国有化となりロココの影響を受けた作品を製造(第二期)。1784年ゾルゲンタール(Conrad Sörgel von Sorgenthal)が工場長となると新古典主義の影響を受けた製品を製造しました(第三期、〜1805年)。19世紀に入るとナポレオン戦争の影響により荒廃の危機が訪れるも持ちこたえ、1814年のウィーン会議後のビーダーマイヤーの時代は再び高品質の製品を製造するようになった(第四期、〜1833年)。その後1864年まで続くも議会により閉鎖が決まり、金型などは他工房へと移ることとなった。
年代/PERIOD | 1802年頃 |
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刻印 /MARK | あり、年代番号、轆轤師刻印あり |
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状態/CONDITION | 良好(多少スレあり)
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サイズ/SIZE | 直径5.6cm 高さ4.2cm |
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