1920年代から1930年代に流行した芸術様式である。アール・ヌーヴォーの曲線美に対してアール・デコは幾何学的なデザインを特徴としており、その表現方法は多様である。1925年のパリ万国装飾美術博覧会の略称がアール・デコ博と呼ばれ、アール・デコの名前の語源となった。自然を意識したアール・ヌーヴォーに対して、アール・デコは都会的、近代的な様相を呈した。その影響は世界に広まり、日本でもノリタケなどがデコの作品を制作している。
エトラン(ETLING)はフランスで1909年から第二次世界大戦時までパリで美術工芸品店を営んでいた。当時フランスの多くの新鋭工芸家と手を組み、多くの優れた作品を制作・販売し、その作品はアール・デコ様式の流行に大きな影響を与えた。 特にオパールセントガラスを使用した作品は評価が高く、人気もある。作品の型はのちセーヴルクリスタルへと渡った。
マルセル・グッピー(1886年〜1954年)は1910年代〜1930年代に主に活動したエナメル装飾家。優れた才覚を発揮し、1909年よりパリの高級ギャラリーであるルアール(Geo Rouard)で装飾家、ディレクターとして1954年まで働く。吹きガラスも自ら製造した。市場に出回ることは少なく、価値も高い。陶磁器の装飾もしていた。
ルアールの1932年カタログに載るグッピーの作品
エナメルによるサイン
※ジョルジュ・ルアール(Georges Rouard,1874-1929)・・・1900年にパリのオペラにある高級陶器・ガラス店”A La Paix"にてディレクターとして働く。マルセル・グッピーと協力し、ギャラリー”ROUARD"へと改名する。初期のころはガレやドームなどのアール・ヌーヴォー工芸品、そしてウェッジウッド、ニュンヘンブルグ、ラリックなど高級食器を扱うとともにグッピーによるオリジナルの商品も販売した。1925年のパリ万博では国際審査委員長を務め、1929バルセロナ万博など数々の博覧会でグランプリを受賞している。なお、画家のジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)とよく誤って混同されるが別人である。
マウリス=エルンスト・サビノ(Marius Ernest Sabino、1878〜1961)はフランスのガラス工芸家。パリ工芸学校等で勉強ののち、第一次世界大戦後に自身の工房を設立。インテリアや照明に力を注ぎ、ノルマンディ号の装飾まで手掛けた。型を使用した成型を得意とし、特にオパールセントガラスの作品を多く製造した。サビノの死後もその型はアメリカの会社に売却されたが、製造はフランスで続けられており、レプリカといったものではない。
シュネデルとも呼ばれる。兄のエルンスト・シュナイダーと弟のシャルル・シュナイダーはともにドームの工房にて働いていた。1912年にドームの会社を退社すると、1913年に会社を設立。アール・ヌーヴォーのデザインはもちろん、幾何学的なアール・デコのデザインでも優れた作品を多く制作する。フランスではガレやドーム、ラリック同様人気の大変高い工芸家である。1981年に操業停止。作品には「Schneider」「Charder」「Le verre francais」などの銘が使用された。初期の頃はエナメルによるキャンディケイン柄のサインも使用された。
1919年のシュナイダーの株券
ピエール・ダヴェス(1901年〜1990年、本名Pierre Girre)はルネ・ラリックの下で10年間働いたのち、1926年にサン・レミ=クリスタル(Cristallerie de Saint-R?・my)と協力し、自身で活動を始める。1930年になるとドームのクロワマール(Croismare)のガラス部門(ポール・ドーム主導のVerreries de Belle Etoile Daum )にて働く。この工房で制作されたものは LORRAINのサインが入っている。ダヴェスは1936年までドームの下で働き、1937年から1940年まではVerlysのマネージメントに関わった。1940年からは、今度はCristallerie de Choisy-le-Roi(sevres)と協力し、また自身で活動を始めた。
ダヴィド・ギュロン(David Gueron)によるガラス工房。1920年代初頭に活動を開始、1926年、新しくパリにてVerrerie d'Art Degu?・を設立する(〜1936)。作品名に ?Degue ?のサインが付けられた。彼はすでに成功していたドームやガレ、シュナイダー(シュネデル)の作品を模して製造した。これを快く思わなかったシュナイダーはギュロンを訴え、訴訟へと発展。この訴訟は1932年まで続き、最終的にシュナイダー側が勝訴したものの、その間に双方ともに経営が悪化していった。また、1928年には芸術家のEdouald Cazoux(1889-1974)と協力し制作もした。
アンドレ・ドラット(1887〜1953)は日本ではなじみが薄いが、アール・デコを代表する作家の一人である。当初は銀行に勤めていたが、顧客であったミュラー兄弟(Muller freres)と仲良くあり、多大な影響を受けるようになった。1919年にはナンシーに工房を構え、ミュラー兄弟とともに制作を行った。1921年にはナンシー近郊のJarvilleにて独立。ドームの技術者も加わるなどした。その後ナンシーに移転し”Verreries de l'Est”と呼ばれるようになり、ナンシーでも随一の工房へと発展した。初期はガレのような優れた被せガラスを制作、またパート・ド・ヴェール、エナメル彩などを使用したアール・デコの作品を制作した。Jarvilとサインしたものもある。
アンドレ・ドラットのサイン
マゾワイエ(Albert Mazoyerとも、1887年〜1950年)はアール・デコ期に活躍した工芸家。マルセル・グッピーのようにエナメル彩を得意とし、ガラスだけでなく陶磁器の作品も残している。
マゾワイエのサイン
ルネ・ラリック(1860〜1945)はアール・デコを代表する芸術家である。とはいえ、初期のころはアール・ヌーヴォー様式の優れたジュエリーを制作した。洗練されたデザインと優れた技術によるジュエリーはラリックの名声を高めた。その後香水商のコティと出会ったことによりガラス工芸への道へと歩み、ラリックのデザインした香水瓶は人気を博しました。1925年のアール・デコ博でもガラスの噴水など多大な作品を披露し、その人気は高まる一方であった。ガラス製品ではオパールセント・ガラスやパチネ装飾などを得意とし、アール・デコ様式の優れた工芸品を作成した。ラリックの会社は現在でも続いている。
ラリックのマークは多数ある。ラリック生前の物はたいていの場合,"R"のついたR.Laliqueのサインを使用している(例外あり。また1914年まではLALIQUEのみのサイン)。ラリックの死後のものはLalique FranceのようにRが付かない。そのため区別するために生前の製品を「アール・ラリック」と呼んだりもする。生前のものと死後のものではその価値が大きく異なり、やはりラリック自身が手掛けたものは価値が高い。
サインの種類も陽刻、陰刻、彫り、線刻など多様です。
アルジー・ルソー(1885年〜1953年)はパート・ド・ヴェールを得意としたガラス工芸家。1902年にセーヴル国立陶芸学校(l’Ecole Nationale de Ceramique de Sevres)に入学。卒業後自身の工房を開く。1921年にはアルジー・ルソー=パート・ド・ヴェール会社(Societe anonyme Les Pates de Verre d’Argy-Rousseau)を設立。1931年閉店。
1880年代に元セーヴル陶芸家のOptat Miletと有名な陶芸家Cl?・ment Massierによって設立。自身らの芸術的な作品をはじめ、アヴィランド(陶磁器)やクリシー(ガラス)などと協力し芸術的な工芸品を多く販売した。Optat Miletの息子であり著名な陶芸家Paul Miletの作品も扱った。アール・デコ期にはジャポニズムのエナメル彩による作品を多く制作。店は1970年代まで続いたとされる。
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